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まちゃひこのシアタールーム

ブログ「カプリスのかたちをしたアラベスク」の別館。映画の話をするよ!

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【感想】映画「バスキア(ジュリアン・シュナーベル監督)」/ニューヨークの亡霊と筆跡

Hatena Feedly

※このエントリーには映画「バスキア」の内容の言及があります。

 

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反復的に同じ手法で、同じ切り口からあらゆることを述べるというスタイルについて、ぼくはこれまでちょっとやだな、と感じていたのだけれど、図らずもいざじぶんがそういうことをすると肯定的な見方ができる。

それは単なる自己正当化だといってしまえばそれまでなのだけれど、自身の主題を反復するという行為は、現在言及していることを離れて大きな言及をしようとする行為になるのだとおもう。作品であれ、ゴシップあれ、なんでもない日常であれ、それらはことばの持ち主のなかに蓄積され、群をなし、自己組織化して構造を得る。もちろん個々の独立した意味がどうでもいいということではないけれど、反復により断片化した個々をつなぐというプロセスについて、最近はよく考える。

 

昨年亡くなったデヴィッド・ボウイがアンディ・ウォーホルを演じていることでも知られる、画家ジャン=ミシェル・バスキアの画家としての生きざまを主題とした映画。

バスキアに友人のベニーはこんな助言をする。

「何年で有名になれる?」

「音楽で? 絵で?」

「何でもさ」

「4年かな。6年で金持ち。まずいい服を着ろ。そして有名人と交われ。彼らと仲良くなるんだ。パーティへ行ってさ、社交ってヤツだ。それから作品を作り続ける。同じタイプの作品ばかりを。ひと目でお前のだって分かるようにな」

 そして街でウォーホルを見たとき、ベニーはこうも言う。

渡すな、売るんだ。画家なら売れ。でないと利用されるだけだ。

 

 

バスキアと筆跡

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ニューヨークのスラム街地区でストリートアートを起点に画家としての活動を始めたバスキアの作品は、その豪快で荒々しい、そして原始的とも評されるタッチや色づかいが特徴で、「ひと目でバスキアだ」とわかるものばかりだ。

このタッチや色づかいは27歳で亡くなるまで続く。もとはキャンバスでなく、壁にスプレーで絵や文字を描いていて、それはアートというよりも落書きといわれるのだろう、若者がなぜ落書きをするのかということに深入りしてなにかをいうつもりはないけれども、おもうに、絵を描くという快楽と自分の筆跡を街に残すという動機が大きいのだとおもう。ここで作品でなく「筆跡」としたのは、名もない若い画家たち、あるいは画家とも名乗れないような画家たちは、ニューヨークという街にうろつく「有名になる」という高名心の亡霊に取り憑かれているのかもしれない。その亡霊に取り付かれたかれらは、みずからの作品の表面に「絵を描く」という行為を引きずり出す。

「この絵はいいね」

よりも

「この作品を描いたのはだれだ?」

を求めた。

 

アンディ・ウォーホルとの友情

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バスキアの晩年の友人であった、ポップアートの巨匠アンディ・ウォーホルはかれの作品を高く評価したけれども、写真と複製の技術を多用した自身の作品にはほとんど「筆跡」というものが消されている。

絵画の表面に自身の創作の身振りを出さなかったわけではないけれど(ウォーホルについては後日、別に記事を書きます)、現実社会での事件を絵筆としたかれの作風とバスキアの作風には遠い隔たりを感じる。なぜウォーホルがバスキアを評価したかについて映画では言及されていないけれど(「天才だ!」という賞賛にとどまっている)、「画家として生きる」ということへの貪欲さが、かれらを結びつけていたように感じられた、すくなくとも、映画内では社交や取引を通じてそのように描かれていた。

 

ポップアートというものについて、いまのぼくは作品の背後になにも残さないことを志向した作品だと考えている。

作品背後にある作家の精神性や思想というものを求めるひとは多いけれど、原始的な意味での創作にはそういうものは存在しないようにおもえるのだ。精神や思想を作品の表面にまで引きずり出すことが創作行為となるならば、その背後にはなにもあるはずがなく、あるならばそれは鑑賞者の「そうであってほしい」という願望が生み出した亡霊だろう。商業を強く意識したこのふたりの画家にとって、それはそれで都合が良かったかもしれないが、アーティストとしてのかれらにとってはあまりにもくだらないものだっただろう。バスキアはその作風から、肌の色や祖先についてインタビュアーにたずねられる。

しかし、作品の背後に出自や創作者の物語が裏付けとなるならば「良いものは良い」という考え方がそもそも成り立たなくなってしまう。

鑑賞に求められることは、画面の現実をそのまますっかり自分が(「受け入れる」でなしに)引き受けてしまうことだ。

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