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まちゃひこのシアタールーム

ブログ「カプリスのかたちをしたアラベスク」の別館。映画の話をするよ!

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映画「アンダーグラウンド(エミール・クストリッツァ監督)」の感想/地上のユートピア

Hatena Feedly

※このエントリーは映画「アンダーグラウンド」のネタバレを含みます。

 

学生時代、サークルの部室(京都ではボックスと呼ばれていた)があった建物があって、ぼくが博士課程2回生に取り壊されることになった。その木造の建物は築100年ぐらいはゆうに経ったもので、大きな地震じゃなくても確かに壊れそうかもしれない。ボックス棟のたてかえの話が出ていた当時、過去の思い出がひとや時代を変えながらも床に幾度となくぶちまけられた酒みたいに染み付いていたのか、反対の声はたくさんあったようだったし、じっさい、すでに引退していたぼくらの同期や後輩、先輩たちもできればあの建物が残っていて欲しかった。

「サークルというものは場所のことをいいあらわすものじゃなくて、ひとの集まりを意味することばだ」

と、同期の友だちがいったことをとてもおぼえている。所属というものは帰属意識を同時にうむ性質を持っているけれど、それが物理的な場所を意味するのか、それとも郷愁のネットワークでつながれた関係性を意味するものなのか、ほんとうのところどちらひとつでいい切れるものじゃないのだけれども、その力関係というものを朝まで鴨川で安いお酒を飲みながらぼんやり考えたりもしたものだった。

 

  

映画「アンダーグラウンド」について

きょうの午前中は図書館で勉強しようとおもっていたけれど、嫁が歯医者の予定を入れていたため、家で映画「アンダーグラウンド」を観ることにした。 

アンダーグラウンド Blu-ray

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この映画は1941年のベオグラードのナチスによる爆撃から始まり、長い冷戦を超え、1992年のユーゴスラビア紛争にわたる50年に及ぶ物語で、

第1章:戦争(Deo Rat)

第2章:冷戦(Deo Hladni Rat)

第3章:戦争(Deo Rat) 

の3章構成を取っている。共産党員のマルコが電気工のクロを戦いに誘い、仲間たちとともに地下へ身を隠す。

第二次世界大戦において、マルコはパルチザンの英雄とされるも、戦死したとされた友人のクロを始めとする仲間たちは地下に幽閉され、戦争の終わりを知らされることなく地下で武器の密造を続け、地上の現実と地下の幻想が長い年月をかけて大きな齟齬を生み出していく。

しかし、戦争や無数の死を扱いながらもこの映画が特に優れているところは、それにかなしさを感じさせないという点にある。それは劇中鳴り止まない陽気なブラスバンドの音楽であり、常に快楽的であり続ける登場人物たちの振る舞いによるものだ。戦争であり、民族としてのアイデンティティであり、今日あまりにも強い意味を持ちすぎるもの、歴史を含みすぎることばや主題というのはたとえるならばあまりにも強い「重力」を良くも悪くも作ってしまう。それに対し自覚的でなければ、作品世界は主題の持つ重力に潰されてしまい、表現未満の、ただ「戦争」ということばをなぞるだけの行為に収束してしまう。本作「アンダーグラウンド」では、先に挙げた鳴り止まない音楽と終わらない快楽により過剰な「生」を描き出すことで、その重力から解放され、表現たる自由を得たようにおもえた。

この映画では意味的な次元で「死」が描かれていないとかんじた、これは批判ではなく、とても優れているという点でぼくはそうおもっている。

すこしまえ友だちとこんな話をしていた、人間は地獄、あるいは果てしない苦痛を想像することは簡単にできるのに、天国、あるいは快楽に関しては貧困な想像しかできない、たとえばぼくらが想像する天国は質素だけれども終わらない日常としての平和な世界であったり、安直に三欲を満たせる場所とかそういうものでしかない、それに比べ地獄や苦痛の想像はヴァリエーションに富む。アンダーグラウンドで描かれる快楽というのも、断片的に見れば実のところ音楽や酒による高揚であり、性交であり、食事がもたらすものでしかない。しかし、それは常にぼくらが一般に持つ苦痛や地獄のイメージと同時に描き出されている。快楽と苦痛はそれぞれに要素分解することは可能なのだけれども、それだけでは決して「生」を描き出すことはできないし、それはこの映画のラストシーンで語られる、

「苦痛と悲しみと喜びなしでは、子供たちにこう伝えられない。『むかし、あるところに国があった』、と」

ということばにより示される。

しかし「死」については、この映画において苦痛の象徴として描かれているようにかんじられる。この物語のなかで、幸福な、快楽的な「死」を経験したものはいなかったようにおもわれた。

こうしてみると、この映画のことを考えるにおいて「生」と「死」が等価なものとして描かれていないがゆえに、この映画において「死」はすべて「生」に回収される。それでもこの映画の持つ「過剰な生」はあらゆる苦痛や悲しみ、死を快楽化することはなかった。

 

地上のユートピア

戦争の終わりを知らされることなく、地下に幽閉されたひとびとはマルコの作ったフィクションのなかに生き、架空の物語のなかで、架空の戦いを生きていたとしても、しかし地下で感じた苦痛や悲しみや喜びまでも架空のものであったなんてぼくらにいうことはできない。そう考えると、実際に架空の世界を生きてしまうことが現実を生きることと大きなちがいを持たなくなるような気がした。

それはむかしのひとが、この宇宙のすべての天体が地球を中心に回っていた世界を生きていたことが、現在にまで歴史として残っているのと同じかもしれない。

ただ、即興的に得られた瞬間の快楽は、それ自体がどれだけリアルなものであっても、得られたと同時に消え去るものでしかない。なんとなく直感的にある、「真実ではない世界に身を置くことの不安」というのは、快楽の終わりを恐れていることなんじゃないかとおもった。そして、半永久的に持続する快楽とは、個人の即興的に得られるものでなく、たとえ私が私でなくても得ることができるものだろう。それをきっと「歴史」と呼ぶ。どれだけ絶え間なく即興的な快楽を摂取し続けていても、必ず終わりが来てしまう、「死」を経験してこそなお得られる快楽は、帰属意識であり郷愁なのかもしれない。「地上のユートピア」は死者のためにこそ存在していて、そしてそこに死者として生きることもまた「生」のありかたなのかもしれなかった。

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