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まちゃひこのシアタールーム

ブログ「カプリスのかたちをしたアラベスク」の別館。映画の話をするよ!

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ゆめとうつつのモザイク――映画「ビューティフル・マインド」(ロン・ハワード監督)

アメリカ
Hatena Feedly

※この記事はおよそ1年ほど前に書かれたものです。

 

共働きの我が家では、夕食は「早く帰ってきた方が作る」ということになってはいるのだけれども、帰ってきたときには両方疲れ切っているということもめずらしくないわけで、適当な炒め物やら惣菜やらでなんとかごまかしごまかし食事をとっている。ただ、こういう生活は子どもがいないから許されているのであって、今後ずっとこういう食生活が続くというのは好ましくないっていうのはお互い自覚していて、ましてや、いまは嫁氏のお腹にはまだ男か女かもわからない子どもがいるということを考えればなおさらだった。とりあえず夫婦で参加できる料理教室へ行こう、ということになった。

それが「プレパパママ食育教室」というものだった。

まもなく子どもが生まれる夫婦を対象にした栄養バランスの良い食事と離乳食の調理実習、栄養士の先生の解説、薬剤師の先生による妊娠中の薬の服用についてのお話、という内容で、メインは調理実習、班分けも誕生予定日が近い夫婦がおなじになるように割り当てられていて、いわゆる「ママ友」をつくることも目的のひとつに入っているようだった。

「あたしにママ友なんかできるだろうか…」

といっていたうちのひとは調理実習がはじまると、ぼくやおなじ班の夫婦にテキパキと仕事を割り振り、瞬く間にキッチンを掌握。与えられた献立を効率的に完成、あるいは業務的に生産していく。本職は有機合成である彼女はどうやら料理していると仕事をしている気分になるのかもしれない。そう考えれば、早く家に帰ってきていた日も晩ご飯を作ってくれていない日の気持ちもわからないでもない。

 

 【映画】「ビューティフルマインド」※ネタバレを含みます

帰ってきてから、映画「ビューティフル・マインド」を観た。 

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ビューティフル・マインド: 天才数学者の絶望と奇跡 (新潮文庫)

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  ↑こっちは原作のノンフィクション

 

この映画のモデルになった数学者ジョン・ナッシュが今年5月に事故で亡くなって、この映画を観ようとしていたことをその時おもいだしたのだけれども、いろいろ日々のバタバタがあるなかで、それを観ようとしたことをおもいだしたことを忘れ、この映画のことを忘れていた。そういうなかでなぜ昨日、この映画のことをおもいだしたのかはよくわかっていない。こういうとき、なんだかふしぎなきぶんになる。

この映画はナッシュがプリンストン大学の院生だったころから物語られ、かれがノーベル賞を受賞するところで終わる。かれを一躍有名にし、ノーベル経済学賞受賞の功績ともなった「ナッシュ均衡」という理論やかれ自身のことはウィキペディアにまかせるけれども、この物語のいちばんの軸になっているものは科学者であるナッシュではなく、統合失調症の患者であるナッシュである。

 

ボクには世界がこう見えていた―統合失調症闘病記 (新潮文庫)

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統合失調症についてぼくはなにかを知っているわけではなく、上に挙げた本にかかれていたようなことや、知人から聞いた程度の話しか知らない。だからぼくはここで、この病気についてなにかをいおうとはおもわないし、そもそもできない。映画のなかでナッシュは諜報の仕事を与えられ、なんでもない雑誌の情報がすべて暗号におもえてしまい、支離滅裂な情報群のなかからなんらかの因果を見出そうとする。物語の中盤でそれが幻覚であると明かされるのだけれども、序盤のプリンストン大学時代のルームメイトもかれの生みだした幻覚だったということが明かされ、そこに構成の上手さを感じた。

映画は基本的に三人称視点の描写になり、そしてこの映画も基本的に三人称的な視点で撮られているけれども、ナッシュにしか見えないものが、なんの違和感もなく描写されている。もちろん、物語が進むにつれ幻覚の人物の異質さは強くなる。しかし、問題は幻覚の異質さを視聴するぼくらが感知できる後半にはなく、それを感知できなかった序盤にある。むしろ、この物語の怖さが幻覚が現実を飲み込んでしまうという世界観にあるとしたら、ナッシュ以外の人物の視点を得た物語後半にはその怖さはほとんどないといえる。

プリンストン大学時代のルームメイトのチャールズはナッシュが作り出した幻覚であると統合失調症と診断を受けた際に発覚する。しかし、これがこの映画のなかでゆるぎない事実であるという保証を得たのは、視聴者がナッシュ以外の視点を獲得したという、映画構成上の問題にすぎない。それはもう映画という媒体の特徴をうまく使った技術として回収してなにも問題はない。だけど、ナッシュ自身が経験した「幻覚が現実を浸食する」という恐怖にいたるには、メタ的な視点が否応なく入り込む映画という媒体で実現するのはむずかしいかもしれない。この映画を観ながら、ぼくはフィリップ・K・ディックの「VALIS」を思い出した。 

 

ヴァリス〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

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メタ的な視点を主観的視点と等価なものとして扱うことができれば、夢と現実が等価になるんだとおもう。

 この映画と数学の関わりをひとつ書くなら、

「数学はこの宇宙がなくなってしまっても、絶対的な正しさを失わない」っていうことだと、個人的におもう。

 

ともあれ、よい映画でした。

 

ゲーム理論についてはこの本がオススメ↓

もっとも美しい数学 ゲーム理論 (文春文庫)

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