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まちゃひこのシアタールーム

ブログ「カプリスのかたちをしたアラベスク」の別館。映画の話をするよ!

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ゴダールについてのあれこれ――「さらば、愛の言葉よ」

フランス
Hatena Feedly

巨匠ゴダールの話題の映画「さらば、愛の言葉よ」が先週から大阪での公開がはじまって、1時間くらいの作品だし仕事をサボってどこかで観よう!とおもいつつも、サボった証拠がたとえ残らなくても仕事を上手くサボれないぼくは、結局週末まで待つことにしました。

今週は体調がずっと悪くて、きっと土曜日は一日寝ているだろうと金曜日は思っていたのだけど、いざ土曜日になると7時半(朝!)には目覚めていて、iPhoneで上映時間を調べるとなんと朝の9:40から上映の1日1回しかなくて、急いで着替えて8時過ぎには家を出ると、いつも出勤で乗っている時間にくる新快速は快速で、ひとは平日よりも全然少ないといっても、三ノ宮までは座れないくらいには混んでいた。

 

ゴダールの映画といえば、文化的意識の高い大学生くらいのひとがむずかしい顔をしながら見ている印象があって、ぼく自身もその類の大学生だったときによく見ていたし、じっさいぼくの次に映画のチケットを買っていた男の子もそんな感じだった。ある翻訳家の方とお話したとき、かれは

「大学生のとき、やたらゴダールやタルコフスキーを見てなにかを論じたりしてみたことがあったあのだけど、あの時期はぼくにとって黒歴史みたいなもので、できることならなかったことにしたい」

というようなことをいっていた。そのときに考えられたり発言されたりしたことは、だいたい頭でっかちで、じぶんで考えたというよりコレクション化した知識の披瀝に過ぎない。……その話を聞いているとぼくも自分の恥部を指摘されたみたいな気分になって、ゴダールやタルコフスキーの名前を人前でいうことを控えた方がいいんじゃないかっておもう。

 

さらば、愛の言葉よの場面カット画像

 

ゴダールについて

ゴダールの映画を見るにあたって、ぼくはその映画のことがよくわからないということを認めることにしたのが、たしか24歳のとき、修士2回生のときだった。当時、ぼくの友だちでとてもすごい小説を書く友だちが、Twitterでゴダールのことをよく話していた。それがきっかけで、ゴダールをもういちどみたくなった。といっても、せいぜい「勝手にしやがれ」「男性・女性」「アルファ・ヴィル」「気狂いピエロ」「アワー・ミュージック」ぐらいしかみてなかったけど(個人的には「男性・女性」が好き)。

  

男性・女性 Blu-ray

男性・女性 Blu-ray

 

 

ゴダールの映画では、文学作品の引用、なにやら哲学的な語り、対話が多用されている。断片化されたエピソード、街……そのなかでことばがやたら存在を主張するのだけれども、なぜそのようにことばが現れるのか、そもそもなんの話をしているのか、ぼくには何度見てもよくわからなかった。だからもうわからなくていいやっておもうことにした。

 

最新作の「さらば、愛の言葉よ」でも、そういった「いかにもゴダール」的な感じは色濃く表れている。しかし、3Dという技術を得て、広がりを持つことになった映像の幅により、ぼくなりにこのゴダールの映画にいままであった「わからない」感じが違うものになった気がした。

 

想像力の無い者は現実へと逃げ込む

 

という引用からこの映画は始まる。想像力、というものが映画を見ているぼくのまさに目の前にあるものだとしたら、と考えるとこの映画はそれが持つ暴力性そのものだ、と感じた。

 


3Dのルールを破れ ゴダール『さらば、愛の言葉よ』感想文 - (チェコ好き)の日記

 

映像については(チェコ好き)さんがいうように「ゴダールばかなんじゃないの…(誉めてる)」というのにほとんど同意で、多重露光、右目と左目で違う映像を見せられるとか、そういうことを多用している。これじゃ迫力満点のエンターテイメント性抜群の3D映画ではぜったいにありえないことばっかりで、とにかく見る側の負荷が大きすぎるし、簡単にいえば目が痛い。超痛い。

ただ、こういった映像が多用されることにより、強調されるのは目の前の光景の「非現実性」だ。パリという街、人々の会話、そういった日常の光景は現実そのものだけれども、そこに入り込む他者の手(=想像力)が、現実から観客を引き離す。いや、引き離す、ということばでは生ぬるい。観客から現実を剥ぎ取る、といった方が適切だろう。断片化され、幾度となく反復される音楽、乱れた映像は観客の記憶に蓄積されることにより、眼前の風景だけでなく、認識としての現実と想像の遠近感までも奪う。

この映画で特に強く感じたのは、ゴダールはじぶんが独自に(先天的に)持っていた「言語」を、ようやく完成したのではないかということだった。

ボルヘスの「無限の言語」では、

 

絵画には絵画の言語が、映画には映画の言語がある

 

無限の言語―初期評論集 (ボルヘス・コレクション)

無限の言語―初期評論集 (ボルヘス・コレクション)

 

 

 

というようなことが書かれていたけれども、ゴダールはそもそも独自に持っていた言語が映画によってなされるものだったんじゃないかっておもう。(いや、いまさらなにいってんだ当たり前だろって話なんだけど)。そして本作では、やはり大量に使われる文学の引用や哲学的な会話は、それじたいに大した内容はないように感じられた。かれにとってこれらは、自身と他者の世界間にリンクを張るみたいな、そういうような意味合いでしかないんじゃないかって。それは地点Aと地点Bという異なる空間や、現在と過去といった時間的なリンクであったりするのだけど、本来同一の空間に存在しえないものたちを混在させることで、かれは現実では視認しえない領域を生きたんじゃないか。

 

見終わって

映画を観終わって、目が痛かった。目薬を持ってくるのがよかった。

想像力の無い者は現実へと逃げ込む、ということばを思い出した。

ぼくの目の前にある世界はすべてぼくの認識で成り立ってしまっているのだとしたら、現実も想像も、そういう区別なんてどこにもないような気がした。そもそも、想像力があろうがなかろうが、ぼくらはどこへも逃げられない。

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