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まちゃひこのシアタールーム

ブログ「カプリスのかたちをしたアラベスク」の別館。映画の話をするよ!

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楽器を続けるむずかしさ、音楽とことば/映画「ぼくを探しに」(シルヴァン・ショメ監督)

フランス
Hatena Feedly

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きのう、土曜日はかなり前から出かける予定が決まっていて、数年前にYouTubeで見て好きだな、日本に来ないかな、とおもっていたギタリストのリサイタルが朝から楽しみだった。マルシン・ディラのタンスマンやポンセが好きだった、というか、それぐらいをYouTubeで聴いたことしかなかったわけだけれども。

 

 


Marcin Dylla - M. Ponce: Sonata Romántica - YouTube

(※きのう、この曲は弾いてません) 

 

 ディラはいうまでもなくすばらしかった。アンコールのアラビア風奇想曲がぜんぜんアラビア風じゃないのが、むかしだったらえーってなっただろうけど、なんだかたのしいとおもってたのしめた。 

 ギターをほとんど弾かなくなってから、ギターを聴きにいこうという発想自体がほとんどなくて、今回のコンサートを誘ってもらったことはとてもうれしいことだった。 ギターを弾かなくなると、とうぜん弾けなくなる。けれども音楽はギターを弾くよりは多い頻度で聴くわけで、久々に弾いたりするとじぶんの音にゼツボーして、真面目に練習するのがいやになってしまう。それは、一度楽器をやめてしまえばもう二度と楽器をはじめられないことを意味しているみたいな気がする。だけど、もう一度楽器をしたいという気持ちはぼくにもあって、爪を未練たらしくいまだにのばしている。

 そして久々にギターを聴いておもうことは、ギターという楽器がいかにひとに聴かせるのがむずかしい楽器かということだった。そして音楽といものが、演奏家ひとりによってなされるわけでなくて、演奏家と同等とはいわないけれども、でもそれくらい集中してすべての聴衆がその音楽を聴かなければ、とくにクラシックギターという楽器のよさがあらわれないような気がした。とくに、きのうは近現代の音楽が多いプログラムだったから、そう感じたのかもしれない。

 

 

ぼくを探しに [DVD]

ぼくを探しに [DVD]

 

(以下、映画「ぼくを探しに」の内容に関する言及があります)

昼の時間に映画を真面目に見ようとおもった。

映画を見ることはじつは最近までほとんどしてこなくて、てきとうに家の近くでDVDを借りてきてみるのがほとんどだったけれども、なかなかどうして、自由に見れ過ぎてしまうと適当にみてしまいがちになるからよくない。映画を見るなら映画館にいかないと、と最近はつよく感じる。

 

 シルヴァン・ショメ監督の映画「ぼくを探しに」を見にいった。すごくよかった。プルーストの引用からはじまる、記憶、というものを主題においたこの映画では、使われていたすべての音がよくてすこし泣けた。2歳のころ両親を失ったショックからことばを話さなくなったピアノ弾きのポールが、マダム・プルーストという名前のあやしいおばあさんにマドレーヌとあやしいお茶(強烈な味がするらしく、飲むと失神する)を飲まされながら、ポールの深いところに沈んでいる記憶を釣り上げようという感じのお話で、ねらった記憶を釣り上げるエサとして、音楽を使っている。想起による時間の跳躍、というプルースト的な手法によって過去の断片へポールは飛躍し、自身の手持ちのやぶれた写真のような記憶を正しく取り戻していく。

 

映画を聴く

 この映画を見ているとき、ぼくはこの映画を聴いていると思う瞬間があった。主人公のセリフは最後のシーンにしかなく、かれはことばをしゃべらない。かれの静かさが、かれのまわりのうるささを強調しているような印象を序盤に感じた。ひとのすべての歌声や話し声、足音、日々のルーティンとして演奏される音楽、咀嚼音、白杖が欄干を叩く音、そういったものが過剰に立ち現われる。しかしそれが、この映画のことばとして機能するのかもしれない。音=ことば、としたとき、音楽と音の区別がなくなる。意味を持つ連続的な音のつらなりを音楽と呼ぶならば、この映画で発せられたすべての音は音楽と呼ぶんじゃないか、とおもえた。

 ポールが記憶を取り戻す行為は、かれをとりまくすべての音を音楽化していくということに同じだったのかもしれない。この映画はとてもポジティブな終わり方をするけれども、音楽を持つこと、ことばを持つこと、あらゆるものに意味を見出すことが、いつもひとの人生を良い方向にすすめてくれるとは限らない、っていうことはいうまでもないけれども、しかし、そういった行為をふしあわせだ、なんて思うひとがそもそもいないような気がする。あらゆる行為に意味がなくても生きていけるけれども、あらゆる行為に意味がなければ、じぶんが生きているってことすらじぶんで知れない。

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