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まちゃひこのシアタールーム

ブログ「カプリスのかたちをしたアラベスク」の別館。映画の話をするよ!

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死んでもまだ生きようとする意思/映画「ぼくを葬る」(フランソワ・オゾン監督)

フランス
Hatena Feedly

 

ぼくを葬る [DVD]

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 きのうの土曜出社は最初から最後までやる気がなかった。いるのかいらないのかよくわからない提案資料をつくったり、新規開拓のリストをつくったりしていた。仕事が終わってから、その日仕事をやめようと上司に相談したぼくらより少しだけ先輩と話して、上司に怒られたりあきれられたりした的な話をきいた。

 

 じぶんなんてクズだーっておもっているその先輩はクズなんかじゃなくて生真面目でじぶんの正しさをちゃんともっているひとで、ただ会社への貢献意識みたいなのがどうしも持てない、みたいな感じだった。客は神さまなんかじゃなくて乞食みたいなもんだ、と先輩はいった。金を払うだけで神さまになれる世界を、ぼくも信じ続けるわけにはいかないな、とおもった。しかし、ぼくらの仕事はお客さんが絶対的に正しいとされているから、そう教えられているから、その正しさを疑うことはゆるされず、がんばれ、とか、成長!とか、三年耐えたら見えるものがある、とかそういうことばを押し付けてくる。そういうひとは、そういうことをいうだけで正義になれちゃうから楽でいいよねっておもう。

 

 家に帰ってきて、つかれていたけれど妻と今後のおたがいのことについておいしいお酒を飲みながら話したりした。行きつけの居酒屋のおばちゃんと大将がこっそり新しく入ったお酒を教えてくれておいしかった。妻は子どもが欲しかったり働きたかったりした。ぼくは子どもが欲しかったり、働きたくなかったりした。あんたはじぶんの能力を過小評価しすぎている、それを見ていてイライラする、というようなことをいわれた。そうだったらいいな、とおもった。

(以下、映画「ぼくを葬る」の内容についての言及があります)

 寝たら起きた。

 午前中は「ぼくを葬る」を見た。「ほうむる」のではなく「おくる」。フランソワ・オゾン監督は去年くらいから好きになった。今回みたのはかれの代表作といわれているもので、31歳の売れっ子カメラマンのロマンが、ある日余命3か月を言い渡され、残された時間をかれなりに生きるといったストーリーだけど、わかりやすいストーリーラインにはオゾンのおもしろさは出てこない。そんな気がする。これは「時間」を撮った映画だとおもう。オゾンは時間や空間に対して、ものすごく繊細な気がする。

 

 もちろん、その「時間」を撮るということが実現されているのには、巧みな物語構成による貢献もおおきい。その中心にあるのは、子ども、という存在だった。かつてのじぶん、かつての姉、現在の姉のふたりの子ども。長く仲たがいしている離婚を控えた姉と、同性愛者である主人公ロマンのあいだにある溝には、子どもを持てるかもてないかという問題がある。同性愛者であるロマンは、みずからの子を持つなんてことを考えられなかっただろう。じぶんの病気を伝えることなく恋人と別れたかれにひとつの話がやってくる。夫が原因で不妊でなやむ女のひとから、子どもをつくるためにわたしとセックスをしてくれ、とロマンはいわれる。夫の了解は得ている、と女はいう。ロマンは断る。「子どもは嫌いなんだ」

 

しかし姉から手紙を受け取り、

彼女を遠目に見ながら電話をすることで状況は変わっていく。子どものころのじぶんと子どものころの姉の、他愛のないいたずらをかれは見た。ロマンが子ども時代のじぶんや姉になにを見たのかは、ぼくにはわからない。けれども、そこからかれはじぶんの子どもをつくることを決める。それが単なる性欲を満たすためか、子を残して死ぬことになにかの意味を感じたのか、見てて結構どうでもいい気がする。なにかのため、という動機付けでなじゃなくて、ロマンは死んでもまだ生きるんだっていう感覚があるように感じた。

 

 死んだらこの世界から消えたりするんじゃなくて、死んだら子どもになる。

 

 それがこの映画の奇妙な時間をつくっている。

 子どものころに出会った大人はこれから死んでゆくわたしかもしれなかったし、これから死にゆくわたしが出会った子どもは、次に生まれるわたしだった。この作品は、違う時空のわたしたちが出会う特異点としての「人生最後の3か月」を描いているようにぼくはおもった。

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