まちゃひこのシアタールーム

ブログ「カプリスのかたちをしたアラベスク」の別館。映画の話をするよ!

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カメラが真実を語るわけではない~意識的なまなざし/映画「シークレット・パーティ」

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シークレット・パーティー [DVD]

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妻の実家に帰ってきて、

しかし妻は高校時代の友だちと遊びにいくといき、義母は仕事、義父は仕事じゃないけれどもちょっとした仕事がぽろぽろあるとのことで、ひとりでお留守番になった。1年前に親族になったとはいえ、それでもぼくは他人で、なかなか居心地がいいとはいえないけれども、ひとりで過ごせるのはありがたいな、とおもう。

 

シークレット・パーティー

 見ようとおもってなかなか見れずにいたDVD「シークレット・パーティー」をみた。この映画の主演はリチャード・ギアでかっこよかった。ぼくもイケメンになりたいとおもった。コールガールのヴァイオレットとミアの役をしているアデレイド・クレメンスとボヤナ・ノヴァコヴィッチもすごくきれいでかわいかったりした。

 この映画には物語らしい物語はなく、コールガールの運転手をしているかつてとても優秀だった青年ジョンが、ある日ビデオカメラを盗んでから、ひたすらかれと、かれの仕事相手であるコールガールたちの日常を撮り続けるみたいな話で、ほとんどがなんでもない、空白とも呼べるような日々の描出だった。

 はじめはヴァイオレットはカメラを向けられることをおもしろがり、ミアは拒絶する。そしてヴァイオレットの説得ののち、カメラの前で幼少期のトラウマと呼べるような出来事をミアは語る。その話にドン引きしたジョンが、

「あれはほんとうの話?」

 とヴァイオレットに聞く。彼女は答える、

「あんた、最低ね」

 

 シークレット・パーティーを見ていておもうのは、この映画には時間はあるけれども、時代がないということだった(後で見直したら、オバマ政権以降だとわかったけれども)。見終わってから、この映画の原題が「Generation Um...」だということを知ったけれども、あえてそこにぼくは触れたくない。この映画を見ていたときのぼくは、登場人物たちが身を置く年代が全然わからなかった。そしてカメラを向けられることに慣れてきたふたりのコールガールたち、そしてジョンがする話はどれも陳腐で、かれら、という特定のだれかじゃなくてもできてしまう会話ばかりだった。それもまた、時代の不在、によりおこったことだとおもったし、むしろ、時代が不在であることによりなされる会話がそれかもしれない。他愛ない飲み会で行われる会話は、いつの時代でもそこまで変わらない気がする。ヴァイオレットはジョンにいう、

「あんた、もっとマシな質問できないの?」

 

 かれらは次第に自由にふるまうようになる。カメラで撮られているときの振る舞いと、カメラのないときの振る舞いに大きな差がなくなる。もちろん、カメラがそこにある、という意識は全員にあるけれども、カメラの存在が異質なものから日常的なものへと認識レベルで変わっている。 ゴダールの「男性・女性」をとてもおもいだした。カメラを向けることによって真実を暴き出す、というようなことはない。真実は、日常のあらゆる場所に偏在していて、そしてその数の多さゆえに特定の真実をぼくらは見つけることができない。カメラを向ける、という行為は、意識的に視線を向ける、という行為のひとつのかたちでしかない。ひとが真実を語らないのは、だいたいの場合、それを問われていないからだ。重要なのは、問う、という行為にあって、カメラを向けることは本質的にその性質を持っている。そして都合よく、そいつを保存してくれる。

 

「たぶん――来るところまで来たんだ。自分自身への失望が両親の失望を大きく上回る。何ていうか――何かを頑張ってたまには胸を張れたとしても、結局それさえ妥協でしかないんだ」

「妥協もいいんじゃないか?」

(中略)

「諦めるな。楽しんだモン勝ちだ。」

「いいね。ポルノサイトの引用か?」

「“答え”は自分で決めるんだ。クソはクソじゃないんだよ。自分がクソだって決めた瞬間に人生はクソになる」

 

29:00~31:00あたりの会話

 

 カメラを持ったりペンを持ったりするひとたちは、問われなくても語りたい、そういう欲求にあるひとたちなのかもしれない。

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