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まちゃひこのシアタールーム

ブログ「カプリスのかたちをしたアラベスク」の別館。映画の話をするよ!

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愛して飲んで歌って(アラン・レネ監督)――主人公の「死」という砂時計

フランス

いやはや、疲労がガッツリ溜まっていたせいか、今週は仕事でミスを連発してかなり凹んでました。というわけで今週は楽しい映画を観る!と決心して、週末を迎えたのですが、なんだか喉が痛い・・・。お休みの日に風邪とかもうサイアクです。

 

どーでもいいことですが、ぼくはお休みの日は、平日よりも早く起きます。

ほんとうは平日にやりたかったアレやコレをやる時間を取り戻そうとするとそうなってしまうのですが、だからといってはかどるわけでもなく、小説を書こうとしても3時間かけて2行くらい書いた!とかですごく効率が悪い。いや、そもそも効率の問題じゃないのだけど、アレやコレをやるには、絶対的に時間が足りていない。そう強く思います。

小説を書きたいし、読書もしたい、アニメもみたいし、廃墟めぐりもしたい、ブログも書きたい・・・。

これら全部をやるためにはどうしたらいいんすかね。

というわけで、今週は映画「愛して飲んで歌って」を観てきましたので、そのレビューをしたいと思います。

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※以下、多少のネタバレを含みます。

 

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死んでもまだ生きようとする意思/映画「ぼくを葬る」(フランソワ・オゾン監督)

フランス

 

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 きのうの土曜出社は最初から最後までやる気がなかった。いるのかいらないのかよくわからない提案資料をつくったり、新規開拓のリストをつくったりしていた。仕事が終わってから、その日仕事をやめようと上司に相談したぼくらより少しだけ先輩と話して、上司に怒られたりあきれられたりした的な話をきいた。

 

 じぶんなんてクズだーっておもっているその先輩はクズなんかじゃなくて生真面目でじぶんの正しさをちゃんともっているひとで、ただ会社への貢献意識みたいなのがどうしも持てない、みたいな感じだった。客は神さまなんかじゃなくて乞食みたいなもんだ、と先輩はいった。金を払うだけで神さまになれる世界を、ぼくも信じ続けるわけにはいかないな、とおもった。しかし、ぼくらの仕事はお客さんが絶対的に正しいとされているから、そう教えられているから、その正しさを疑うことはゆるされず、がんばれ、とか、成長!とか、三年耐えたら見えるものがある、とかそういうことばを押し付けてくる。そういうひとは、そういうことをいうだけで正義になれちゃうから楽でいいよねっておもう。

 

 家に帰ってきて、つかれていたけれど妻と今後のおたがいのことについておいしいお酒を飲みながら話したりした。行きつけの居酒屋のおばちゃんと大将がこっそり新しく入ったお酒を教えてくれておいしかった。妻は子どもが欲しかったり働きたかったりした。ぼくは子どもが欲しかったり、働きたくなかったりした。あんたはじぶんの能力を過小評価しすぎている、それを見ていてイライラする、というようなことをいわれた。そうだったらいいな、とおもった。

(以下、映画「ぼくを葬る」の内容についての言及があります)

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カメラが真実を語るわけではない~意識的なまなざし/映画「シークレット・パーティ」

アメリカ

 

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妻の実家に帰ってきて、

しかし妻は高校時代の友だちと遊びにいくといき、義母は仕事、義父は仕事じゃないけれどもちょっとした仕事がぽろぽろあるとのことで、ひとりでお留守番になった。1年前に親族になったとはいえ、それでもぼくは他人で、なかなか居心地がいいとはいえないけれども、ひとりで過ごせるのはありがたいな、とおもう。

 

シークレット・パーティー

 見ようとおもってなかなか見れずにいたDVD「シークレット・パーティー」をみた。この映画の主演はリチャード・ギアでかっこよかった。ぼくもイケメンになりたいとおもった。コールガールのヴァイオレットとミアの役をしているアデレイド・クレメンスとボヤナ・ノヴァコヴィッチもすごくきれいでかわいかったりした。

 この映画には物語らしい物語はなく、コールガールの運転手をしているかつてとても優秀だった青年ジョンが、ある日ビデオカメラを盗んでから、ひたすらかれと、かれの仕事相手であるコールガールたちの日常を撮り続けるみたいな話で、ほとんどがなんでもない、空白とも呼べるような日々の描出だった。

 はじめはヴァイオレットはカメラを向けられることをおもしろがり、ミアは拒絶する。そしてヴァイオレットの説得ののち、カメラの前で幼少期のトラウマと呼べるような出来事をミアは語る。その話にドン引きしたジョンが、

「あれはほんとうの話?」

 とヴァイオレットに聞く。彼女は答える、

「あんた、最低ね」

 

 シークレット・パーティーを見ていておもうのは、この映画には時間はあるけれども、時代がないということだった(後で見直したら、オバマ政権以降だとわかったけれども)。見終わってから、この映画の原題が「Generation Um...」だということを知ったけれども、あえてそこにぼくは触れたくない。この映画を見ていたときのぼくは、登場人物たちが身を置く年代が全然わからなかった。そしてカメラを向けられることに慣れてきたふたりのコールガールたち、そしてジョンがする話はどれも陳腐で、かれら、という特定のだれかじゃなくてもできてしまう会話ばかりだった。それもまた、時代の不在、によりおこったことだとおもったし、むしろ、時代が不在であることによりなされる会話がそれかもしれない。他愛ない飲み会で行われる会話は、いつの時代でもそこまで変わらない気がする。ヴァイオレットはジョンにいう、

「あんた、もっとマシな質問できないの?」

 

 かれらは次第に自由にふるまうようになる。カメラで撮られているときの振る舞いと、カメラのないときの振る舞いに大きな差がなくなる。もちろん、カメラがそこにある、という意識は全員にあるけれども、カメラの存在が異質なものから日常的なものへと認識レベルで変わっている。 ゴダールの「男性・女性」をとてもおもいだした。カメラを向けることによって真実を暴き出す、というようなことはない。真実は、日常のあらゆる場所に偏在していて、そしてその数の多さゆえに特定の真実をぼくらは見つけることができない。カメラを向ける、という行為は、意識的に視線を向ける、という行為のひとつのかたちでしかない。ひとが真実を語らないのは、だいたいの場合、それを問われていないからだ。重要なのは、問う、という行為にあって、カメラを向けることは本質的にその性質を持っている。そして都合よく、そいつを保存してくれる。

 

「たぶん――来るところまで来たんだ。自分自身への失望が両親の失望を大きく上回る。何ていうか――何かを頑張ってたまには胸を張れたとしても、結局それさえ妥協でしかないんだ」

「妥協もいいんじゃないか?」

(中略)

「諦めるな。楽しんだモン勝ちだ。」

「いいね。ポルノサイトの引用か?」

「“答え”は自分で決めるんだ。クソはクソじゃないんだよ。自分がクソだって決めた瞬間に人生はクソになる」

 

29:00~31:00あたりの会話

 

 カメラを持ったりペンを持ったりするひとたちは、問われなくても語りたい、そういう欲求にあるひとたちなのかもしれない。

映画カテゴリをサブブログ化しました

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こんにちは、若布酒まちゃひこです。

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